「動」の西洋と「静」の東洋

ここで留まるか、もっと踏み込むか…悩んでることがある。
思うがままに決断することが多い私にはちょっと珍しいこと。
ふとフレーズ・パスカル(1623~1662)の言葉を思い出す。

人間のあらゆる不幸の原因は、ただひとつ、 部屋でじっとしているすべを知らないことである。」(「パンセ」断章139)

自分の内と外との境界線をまたいで外に刺激を求めれば、
たしかにパスカルの言うとおり、不幸のはじまりと言えるだろう。
でも、じゃあどうすれば?となると彼の答えは「神への信仰」。
そんな話が「パンセ」断章233の「パスカルの賭け」で描かれる。

西洋思想では解決策が見つからないまま時は流れ、
メーテルリンク「青い鳥」(1908)でも同じ助言が繰り返され、
そしてバートランド・ラッセル「幸福論」(1930)のなかでは、

人間は、自分の情熱と興味が内ではなく外へ向けられているかぎり、幸福をつかめるはずである。」P267

と結局、外への情熱が幸せへの近道、となってしまう。
バブルの形成と崩壊を繰り返す、人の心の弱さの原点とも言える。
ここから東洋に目を向けると、とくに「」の思想は独特だ。

身心を調へて、欠気一息あるべし。兀々と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禅の法術なり。」(道元「正法眼蔵」座禅儀)

ひらすら坐り、思いのない世界(不思量底)に身をおく。
そして思いが尽き果てる(非思量)ところまで心を磨く。

人は直立二足歩行により脳が発達し、文明文化を築いてきた。
その歴史をいったん断ち切って、「無」から座り直すのが座禅

この感覚の違いは、西洋の「動」と東洋の「静」と分けるべきか。
はたまた狩猟民族と農耕民族の違いから来るものなのか。
とにかく「禅」への関心は尽きないものがある。