人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも…

その死によって美学が完成する西行の人生を追いかけていると、
ヘロドトス「歴史」のソロンの言葉を思い出す。※全文は末尾に

人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差し控えねばなりません。

生前の西行は「和歌こそが生きた証を遺す手段」と考えていたように見え、
勅撰和歌集の編さんに携わりそうな貴族に、詠んだ和歌を送り続けてた。
lunatic(狂気)の語源でもある「(luna)」の和歌を狂ったように詠い、
さらにはへの執着…、出家した身にしては現世に執着しすぎ。
「この人、僧侶としてどうなんだろ?」と思われていてもおかしくない。

しかし、和歌に込めた願いを実現するという有終の美をかざったことで、
当時の文化人は度肝を抜かれ、西行に対する評価が一変したことだろう。
百人一首にも歌が残る比叡山の天台座主(住職)、慈円

入滅臨終などまことにめでたく、存生にふるまひ思はれたりしに更にたがはず、世の末にありがたきよしなむ申しありけり。

と「拾玉集」の中で西行の死を賞賛。
死後まもなく編さんされる「新古今和歌集」で最も多くの和歌が選出され、
室町時代の能の大成者、世阿弥は「西行桜」を書き遺した。

これまで(過去・現在)の人生の評価は、
これから起きること(未来)によって、常に編集し直される。
そしてこれから起きることで決まっているものは「死」しか存在しない。
人の人生の良し悪しはその人の死後、他の人が判断するものなのだ。

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ヘロドトス「歴史」松平千秋訳・上巻P35より

「どれほど富裕な者であろうとも、万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日暮らしの者より幸福であるとは決して申せません。腐るほど金があっても不幸な者もおれば、富はなくとも良き運に恵まれる者もまた沢山おります。……体に欠陥もなく、病を知らず、不幸な目にも遭わず、よい子に恵まれ、容姿も美しい…その上更に良い往生が遂げられたならば、その者こそあなたの求めておいでになる人物、幸福な人間と呼ぶに値する人物でございます。人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差し控えねばなりません。