新古今和歌集の桜歌/無常と面影

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古今和歌集(905)から時代を下ること300年。
鎌倉時代初期に完成したのが新古今和歌集(1205)。
桜の和歌に込められた想いを辿ると変わったなぁ、という印象。

華やかだった貴族社会が終わり、武家社会がやってきた。
そんな背景もあってか、この世の無常を桜にうつした和歌が目立つ。

はかなくて 過ぎにしかたを 数ふれば
花にもの思ふ 春ぞ経にける

はかなさを ほかにもいはじ 桜花
咲きては散りぬ あはれ世の中

前者は式子内親王(101)、後者は藤原実定(141)の和歌。
両者ともに人生やこの世のはかなさを桜に重ねている。
そして天皇までもが同様の和歌を残している(鳥羽院・1465)。

惜しめども 常ならぬ世の 花なれば
今はこの身を 西に求めむ

咲き誇る桜もやがては散ることを、人生に重ねあわせる。
この時代の代表的な歌人、西行が歌った桜にも数多く現れる。

無常観といっても決して暗いばかりではない。
日本の古典は無常を語るとき、名文・美文が生まれる特徴があるから。

脱線してきたので、新古今和歌集に話を戻さないと。
古今集と新古今集の桜歌を比較した際に目についたのが、
新古今の桜が散った後の名残や面影を詠んだ和歌。
上から順に藤原雅経(145)、後白河院(146)、源経信(148)。

花さそふ なごりを雲に 吹きとめて
しばしはにほへ 春の山風

惜しめども 散りはてぬれば 桜花
いまは梢を ながむばかりぞ

ふるさとの 花の盛りは 過ぎぬれど
面影さらぬ 春の空かな

心にとどめた美の残像で不足を補う。
後の枯山水や茶道にも見られる美意識が現れ始めているような。

毎年、年初~桜の満開に調べる「日本人が桜に込めた想い」。
今年は今日で最後かな。ではではまた来年。


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