西行「山家集」春の章より桜歌10首

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西行「山家集」春の章は全173首のうち103首が桜の和歌。
昨日のポカポカ陽気に誘われて、桜の和歌を10首編集してみた。

この時代の桜にはすでに花見という行事はあったようで、
(花見&お酒セットの最古の記述はたぶん伊勢物語

花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ
あたら桜の とがにはありける

今よりは 花見ん人に 伝へおかん
世を遁れつつ 山に住まへと

花見に大勢の人がやってくる…そこが桜の惜しまれるところ。
だから世俗を捨て、心安らかに桜をめでることを知った今、
私のように世を遁れ山に住みなさい、と伝えたい。

当時の桜はソメイヨシノではなく山に自生するヤマザクラだから、
山奥に住んでしまえば、1人静かに桜を観賞できたのかな。
貴族は1日2食だったから体力不足で行動範囲が狭かったしね。

そして西行はやはり月とセットの花見を好んだようで、

雲にまがふ 花の下にて ながむれば
朧に月は 見ゆるなりける

雲かと見まごうほどに咲き誇る桜の花の下で眺めると、
その花の雲のため、月はおぼろに霞んで見えてくるよ…
そんな咲き誇る桜もやがて散る。

春風の 花を散らすと 見る夢は
さめても胸の さわぐなりけり

花散らで 月は曇らぬ よなりせば
ものを思はぬ わが身ならまし

だからこそその姿に人生を投影してしまう。
この世が桜が散ることもなく、月が曇ることもない世界であったなら…
てもたとえ散ってしまったとしても、

風さそふ 花のゆくへは 知らねども
惜しむ心は 身にとまりけり

散る花を 惜しむ心や とどまりて
また来ん春の たねになるべき

風に乗って散りゆく花の行方は分からないけど、
散る花を惜しむ想いはどこかに消えたりせず私の心にとどまって、
再びめぐりあう春に咲く花の種となるのかな。。。

最後に「山家集」でも固まって収録されている3首。

花に染む 心のいかで 残りけん
捨て果ててきと 思ふわが身に

願はくは 花のしたにて 春死なん
そのきさらぎの 望月の頃

仏には 桜の花を たてまつれ
わが後の世を 人とぶらはば

世俗を捨ててもなお、西行の心から離れることのない桜。
そして和歌に込めた願いどおり、桜が咲き誇る満月の日に亡くなった。
当時の文化人の間で鮮烈な印象を残したようで、
たとえば歴史書「愚管抄」を遺した慈円

入滅臨終などまことにめでたく、存生にふるまひ思はれたりしに更にたがはず、世の末にありがたきよしなむ申しありけり。

と「拾玉集」の中で西行の死を賞賛している。
また死後まもなく編さんの「新古今和歌集」で最も多くの和歌が選ばれ、
室町時代の能の大成者、世阿弥は「西行桜」を描いた。

西行の真価は、信じがたいほどの精神力をもって、数寄を貫いたところにあり、時には虹のようにはかなく、風のように無常迅速な、人の世のさだめを歌ったことにあると私は思う。
---白洲正子「西行」P294

数寄を貫き通した西行の人生。
千利休などその後の文芸人に通ずる心得を持った偉人だけど、
西行の場合、生活の糧はいったいどこにあったのか不思議。
でも、またそんなところが魅力的なのだけどね。

※西行の和歌編集シリーズ…西行「山家集」の月恋歌より10首


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