無欲にして万物の妙を見る/道元「身心脱落」

無欲であれば万物の本質(妙)に迫ることができるが、
欲があればその表面上の形(徼)に触れることしかできない。

常に欲無くして以て其の妙を観、常に欲有りて以て其の徼を観る。

老子の冒頭で語られた金言。
お金、情報、経験、人間関係などなど…
無欲・無心になるために、どこまで求め、どこを斬り捨てるべきか?
ちょうどいいところを探して、

と今年は古典をいろいろ引いたけど、まだまだ分からない。
今日は久しぶりに道元正法眼蔵」を開いてみた。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」(現成公案)

而今の山水は古仏の現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆえに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆえに、現成の透脱なり。」(山水経)

道元の表現は例によって難しいので、私なりに編集すると、

  • 自分や他人の心身を所有するという考えを捨てよ(身心脱落)
  • 主観・客観に仕分けする以前(朕兆未萌)の自己を捉えよ

そうすることで自己を忘れ(無心・無欲)、
過去・現在・未来が凝縮した今(而今)を感じることができるだろう。

とても分かりにくいけど「主客未分の自己」という道元の教えは、
約700年後の哲学者、西田幾多郎の「純粋経験」に引き継がれる。
まだまだ読まなきゃいけない古典がてんこ盛りですな。

コメント

  1. 貴ブログで書かれていたことがきっかけで、今、「夢中問答集」を読んでいます。
    名著ですね。
    夢窓国師が、素晴らしいのは、禅と教学の両方をマスターしているからでしょうね。
    本質(禅の悟り)を教学の教えを基に、言葉に表す。
    以前に貴ブログに書かれていた通り、足利直義の質問も素晴らしい。
    当時はこのような教養を武士がすでに持っていたのですね。
    >無欲・無心になるために、どこまで求め、どこを斬り捨てるべきか?
    個人的なイメージですが、薬師寺元館長 高田光胤氏のことば
     とらわれない こころ
     かたよらない こころ
     こだわらない こころ
     ひろく ひろく もっとひろく
     これが般若心経 空のこころなり
    が、私には一番しっくりきます。
    無心というものは、心が無いのではなく、ある場所に固まっていないで、全体に広がっていて、必要な時にはそれが集まって働き、またそれが終われば元の通り全体に広がる・・・というような自由さ・柔軟さをイメージしています。
    >「常に欲無くして以て其の妙を観、常に欲有りて以て其の徼を観る。」
    常に求めると、心がそれに固まってしまう。そうすると、その他のものが見えなくなってしまう。それゆえ「妙」が分からなくなる。
    このような感じかと。
          

  2. まろ@管理人 より:

    夢窓国師「夢中問答集」の分かりやすい解説本がこれまでなかったのですが、禅僧・西村惠信氏が最近、NHKラジオで講義をしているようで、そのテキストがオススメです。
    そういえば老子には
    「天下に水よりは柔弱なるはなし。…弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、
    天下知らざるものなきも、よく行なうものなし。」
    というのもありました。
    http://www.pixy10.org/archives/11218610.html
    やっぱり柔軟性が大事ってことですね。