投資の本質を「パスカルの賭け」で探る

投資とはよりよい未来へ一票を投じる賭け」である。
「賭け」というと倫理的な悪(ギャンブル)が想起されるけど、
結果が分からないことを決断することは「賭け」にほかならない。
もし「賭け」でないと主張するのなら、

って酔っぱらいの思い込みのような状態だろう。
17世紀の哲学者フレーズ・パスカルはこう問いかける。
「この世に神がいるか、いないか。あなたはどちらに賭けるか?」
通称「パスカルの賭け」と呼ばれる意志決定論の起源だ。

神はあるか、またはないか。・・・理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てで賭けが行われ、表が出るか裏が出るのだ。

そこに「無限」があるかぎり、「理性」で世界を読み解くことはできない。
この「理性」批判は同時代の哲学者デカルトに対するものだ。
そして理性崇拝の矛盾を指摘するため、パスカルは神を持ち出す。
キリスト教世界の人間にとって、ただ生きるだけで、
神の信仰ゲームに参加することを強要されることになるから。

賭けることを余儀なくされている場合には、無に等しいものを失うのと同じような可能性でもって起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで、出し惜しみするなど、理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。

神を信じる信じないの賭けは理性で判断するものではない。
信じることの期待値は「無限」なのだから、とパスカルは説く。

もうけられるかどうかは不確実なのに、賭の危険を冒すことは確実であると言ったところで、なんにもならない。

神から離れ、投資に話を戻そう。
投資が楽しいのは、そこに「無限」の可能性が感じられるから。 
だからこそ「投資はより良い未来へ一票を投じる賭け」なのだ。

もうける確実さというものと、損する確実さというものとのあいだにこそ無限があるのである。

未来はいつも無限の混沌の中にある。
そして無限へ飛び込む勇気が、禅的意味での「投機」ではないか。

限りある人生で無限を感じることの喜びはこの上ない。
有限の中に無限の美を見る、というのは日本文化の手法だが、
ある意味、投資家としての私が込める想いに近いかもしれない。

参考図書
ジャン・ブラン「パスカルの哲学」P105-107
ピーター・バーンスタイン「リスク」P124-129