無縁。
今では社会問題を表す言葉になっているけど、
鎌倉時代には「遁世」や「隠遁」は知識人の憧れだった。
徒然草211段にもそれがよく現れている。
万の事は頼むべからず。
愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。
この世に頼れるものなどない。
愚か者は次のような人や物に頼ろうとするから、恨みや怒りに囚われる。
勢ひありとて、頼むべからず。こはき者先づ滅ぶ。
財多しとて、頼むべからず。時の間に失ひ易し。
権力を頼りにするな。強いものから滅ぶものだ。
富を手にしてもあてにはできない。一瞬でなくなるものだから。
人の志をも頼むべからず。必ず変ず。
約をも頼むべからず。信ある事少し。
他人の好意に頼るな。人の心はうつろいやすいから。(→26段)
約束もあてにならない。信義を貫く人は少ないから。
兼好法師はなぜこのような考えを説くのか?その訳は…
身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。
自分にも他人にも期待しないことだ。
そうすれば良い時は素直に喜び、悪い時に恨むものはない。
人は天地の霊なり。
天地は限る所なし。人の性、何ぞ異ならん。
寛大にして極まらざる時は、
喜怒これに障らずして、物のために煩はず。
人間は天地の間の存在。
天地に際限がないのだから、人もこれと異なるはずはない。
心が穏やかであれば、喜びや怒り、外的なものに苦しむことはない。
孤独と向き合い(→12,13,75,134段)、心の極地を求めた兼好法師。
穏やかな心を手にするために諸縁を絶つ。それが211段の思想。
そうは言っても、今は亡き恋人のような心通じ合える相手が欲しい…
理想と現実の葛藤に思い悩む姿も徒然草に見てとれる。
やはり白楽天の「中隠」がちょうどいいところなのだろうか?
コメント
たしかに「無縁社会」は、しがらみがなくて楽ですからね。
いまも、核家族化から、さらに個人化に進行しています。
他の人を求めるのは、自分が弱ってきてからなのかもしれません。
ヤマアラシのジレンマがありますし、さらに、一人っ子が増えると(兄弟での争いがなくなるので)、他の人とのうまく境界線の引き方が学習しにくいし。
自分に都合のよい他人は存在しないと思うので、経済的に余裕がある限り、利便性が進む限り、個人化(無縁社会)に歯止めはかからないと思います。
今の時代は濃い人間関係は難しい時代かもしれません。(たぶん独身が増えているのも同じ理由でしょう)
そういえば中途半端な人間関係が増えましたね。
なんだか分からない安心を求めて、ごにょごにょ群れてる感じなのが。
「世に従へば、心、ほかの塵に奪はれて惑ひやすく、人に交れば、言葉よその聞きに従ひて、さながら心にあらず。」(徒然草・第75段)
結局のところ兼好法師は「自分の頭で考えるために」縁を絶つことを望んでいるから、今の無縁社会とは少し違うんだろうな、という気もします。
>そういえば中途半端な人間関係が増えましたね。
>なんだか分からない安心を求めて、ごにょごにょ群れてる感じなのが。
SNSは、そういう人間関係の構築にぴったりはまったようですね。
深くなくて、いつもつながっている安心感・・・SNS依存症が増えそうだ。
ズバリ「スマホ×Facebook」は知性を奪う最強の道具です。
「つぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息も継ぎあへず語り興ずるぞかし。」(徒然草56段)